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気づきの力は人生を変える!

成功とは

★ 本日のテーマ ★

「成功とはなんだろう??」

 

お久しぶりです。

今日は「成功」について語っていきたいと思います。

 

皆さんは成功したいと考えることはありますか?

おそらくみんなが成功したいかしたくないかで言えば成功したいと答えると思います。

成功は一般的には、物事を目的通りに成し遂げること、という意味の言葉ですね。

ということは、目的や目標を持って、その上でそれに向かって努力をして、その目標を達成することということになります。

つまり成功したいと考える人には必ず目標があるというということですね。

人それぞれ、人の数だけ道があると思います。

その成功の先に自分が望んでいるものが待っているのでしょう。

人によってその夢は違うし、幸せに感じるものも違います。

人によっては、有名になりたい、楽に生きたい、大切な人を守りたい、見返したい、強くなって挽回したい、などなど

様々な動機などから目標も様々です。どれもその人の生き方であり人生です。

成功の価値に上も下もないと思っています。

でもそもそも成功は絶対必要なのだろうかとも考えます。

成功しなくても、生きているだけで立派という考え方もあるでしょう。

必ずしも必要というわけではないし、その成功が必ずしも幸せにつながっているかは本人でもわからないところもあるでしょう。

成功とは何か、と問われると難しいですよね。何を持ってして自分は成功したと言えるのか。

その目標を達成した先にもし自分が望んだ未来が待っていたのなら、

きっとその時に成功したんだって感じるのかもしれませんね。

ただ僕が最近思ったことなんですが、

負の感情が動機になっている場合は注意が必要だなと感じました。

例えば悔しいという気持ちとか、やり返したいとかといったネガティブな感情です。

これは原動力になるしバネになるし、突き動かすエネルギーにすることはできると思います。

ただ、自分が向かっている先に自分にとっての幸せが待っていないなら、成功とは言えないと思っています。

悔しいから見返したくてカッコよくなるとか力をつけるとか金持ちになるとか、

それは自分の人生の幸せのためでしょうか?

自分の中の弱さからくる視野の狭さからくる、承認欲求のような感情から目指している目標になっていないでしょうか。

自分や自分の大切な人の幸せのことだけ考えた時、

その意地は必要なのでしょうか、とふと考えたのです。

それを考えさせられた時、気づくことがありました。

トラウマを抱えている人などが陥る可能性のある罠なのかなとも感じました。

復讐の先には虚しさしか残らない、そんな言葉がありますが、似ている気がします。

視野が狭いと向かう矛先も狭くなってしまいます。

本当の幸せに気づけず、思い込んだ幸せを追い求めようとしてしまうのです。これは無理もないと思いますが。

その努力やむかえた成功が無駄だと言っているわけではありません。

その力はきっと素晴らしい気づきを与えてくれるでしょう。価値は人それぞれで良い悪いはないと思っています。

同期もなんでもいいと思います、人生は自由です。

ただ幸福度の観点で考えた時に思ったのです。

そもそも戦わなくても良いものと戦ったりしていないだろうか、ということです。

多くを気づくことで見えてくるものがあります。

そもそも見返したりする必要がないともしわかっていたとしたら?

それはただの自己満足でしかないとしたら?

でも世の中に正解はないし逆に全部正解でもあります。自己満足に生きても正解だと思います。

ゆえに多くの気づきの中、自分の道を心からの信念で生きて、

成し遂げて、成功して、目標を達成していったりしていきたいですね。

今日は以上です!

 

本日の気づき

「自分が叶えたいと思っている目標は、本当に幸せを運んでくれるものですか?成功とは、自分や大切なものの幸せのためにある」

 

精神の病気について

 

本日のテーマ

 

 

「なぜ精神の病気は治らない?」

 

 

精神疾患を患い、仕事を続けることが困難になり、退職、その後年金や生活保護を利用し生活されている人は多くいます。

 

彼らの多くは長年精神の病と付き合っており治療も何年もしています。

 

ですが、現状、その生活から抜け出したり、病気を良くしていけてる人が少ないという現実があります。

 

これは非常に難しい問題です。

 

抱えている障害により、日中活動も欠席が続くこともあります。

 

薬が増える一方で、薬により症状を楽にすることはできても、病気が消えるわけではありません。

たばこやお酒に依存しやすく、それを断ち切ることが難しいです。

 

また、目先の不安に精一杯になってしまい、生活習慣が乱れてしまいがちです。

当然運動不足にもなります。

負の連鎖です。

 

自立した生活が難しい人たちはグループホームなどに入居し、支援を受けながら生活します。

 

そこでの世話人生活支援員は医療従事者ではありません。支援はしてくれますが、専門的に病気に対するフォローやアプローチはできていないのが現状です。

 

病気を良くするには現状、精神科の病院、クリニックなどでの治療しからないといえます。

 

また、自分から治そうと思わない限り、誰も救いの手を差し伸べてはくれません。

 

精神疾患の症状は人の数だけあり、自分が伝えないと適切な治療は受けられにくいと思います。

 

しかしながら、精神疾患を患っている方々の多くは、認知機能の低下がみられ、病識が乏しい方も多いです。

病気の本質には気づけず、目先の不安が怖くて仕方なくなっています。中には発達障害の方もいます。

 

つまり1人の力では適切な治療を自ら求めることすら困難な状態ということです。

この危機に当人たちは当然気付いていません。毎日目先の不安で頭がいっぱいだからです。

 

支援員たちはその目先の不安への対処などします。それは本質的な問題が解決しない限り一生続くものです。

 

しかしながら厄介なのは、コレでいいという現実があるということです。

 

その対処や生活全般の支援を仕事にしている人たちは、むしろ完治されたら仕事が減ってしまうのです。会社によってはそういった闇の一面も少なからずあるのです。

 

究極的には病院もそうです。患者さんは十分すぎるくらいいますが、患者さんがいてこその医療というビジネスです。

 

病院によっては精密な治療を展開せず、定期的に話を聞いて、薬を渡すといったルーティンになってるところが多いようです。

 

精神病は内科や外科的な病気や怪我と違い、手術や内服で寛解するようなものではありません。

薬はあくまで痛み止めみたいなもので、症状を誤魔化してるに過ぎないです。

そんなルーティンでは一生治ることはないでしょう。

 

しかし事実として、だからといって他に手があるか、手を打てるかというと、これがまた難しいです。

 

医者たちも諦めてるわけじゃないが、どうしようもないという状況であるのも事実なのです。

 

これは精神病がある種不治の病といわれてるところでもあります。

認知症や慢性的な腰痛みたいなもので、一生付き合っていくしかない一面があるということです。

 

理由となる問題はいくつもあります。

 

病気を治すには本人に治す気がないとはじまりません。人にもよりますが、それを適切に促し理解してくれる周囲の人間が欠かせません。

 

精神疾患を抱えた人たちは、人との関わりを避けます。またIQも理解力も低下しています。

 

信頼のおける人がいるならいいですが、他の方のアドバイスなどを理解し咀嚼し行動に移せる人はなかなかいません。

 

また、一度生活保護の生活に慣れ、現状のままで満足していく人もいます。

 

人によっては、それ以上の治療の必要性を感じていない理解していない人もいるのです。

 

治療する側もそのあたりを熟知した上だとしたら、無理もないルーティンです。

治療を強制することは無意味となります。

 

彼らをもっと良い状態にすることはできるでしょう、しかしながらそれをできなくする壁が多過ぎます。これが精神疾患に携わる業界の闇です。

 

精神疾患の方々を取り巻く環境で働いているスタッフたちも、これらについて気付いている人は多くありません。専門資格も特別必要ありません。

 

会社によっては病状や健康面より、生活周辺の支援をメインに仕事を展開しています。会社は利益を追求するので、当然といえば当然です。

 

つまり誰も治せないのです。

 

治し方はあります、そのエビデンスもあります。

 

ただ、ここに本人が辿り着くまでの壁が高く多いのです。

 

一度精神疾患を患えば本人の意志だけではたどり着くのはほぼ無理でしょう。

人にもよります。不幸な悲劇により患ってしまい努力してる人もいれば、あらゆるストレスに負け努力を放棄しもがいてる人もいる。間違った努力してる人もいれば、辛いことから逃げ続け堕落し生活が壊滅的な方もいます。様々です。

 

病気のせい、この言葉は大変便利な言葉です。

 

確かにすべて病気のせいかもしれません。

精神疾患は目に見える怪我とは違い、一見するとわからないレベルのものもあります。しかし見た目普通だから軽いというわけでもなく大変難しい病気です。

 

だからこそ誤解も絶えない業界です。

ひとついえるのはすべてが病気のせいではないということです。

 

精神疾患は診断が難しく、診断基準が明確なようで明確でありません。

 

精神に異常をきたしてしまった背景は様々で、人によっては嘆かわしい悲劇、人によってはある種自分のせいというパターンもありうるのです。

努力した人、負けた人、放棄した人、様々でしょう。

 

人は生きてれば必ず悲しい出来事や辛い出来事が多かれ少なかれあるでしょう。

 

ストレスのない人間はいません。

 

そんなサバイバルな中、病気になる人、ならない人、この違いはいったいなんなのでしょうか。

 

僕たちは常にサバイバルの渦中にいることを忘れず、彼らから学ぶことが多いということを忘れてはならないと、そう思います。

 

 

 

本日の気付き

 

「精神病を取り巻く環境には闇が潜んでおり、決して人ごとではないという事実がある」

 

ではまた次回!

 

 

不安には間違いなく罠がある

本日のテーマ

 

 

「不安による、罠」

 

 

不安のない人はいませんし、

不安はある種の危険察知センサーのようなものだと思います。不安は必ずしも悪い物ではないでしょう。

 

しかしながら、人が生きる上で苦しい思いをするときは、必ず絡んでくるのが不安でもあるように思います。

不安があるから悩みが生まれますし、恐怖を感じるし、緊張したりします。

 

この不安の取り扱いは、十分に注意する必要があるといえます。

時として僕たちは、自分でも気づかないうちに自分を苦しめてしまいます。やはり不安に囚われないことが重要と考えています。不安には罠が多いのです。

 

人が心を病んでしまう理由はいろいろあると思います。そのひとつに、思考のエラーというものがあると思います。

 

人は常になにかしらを考えて生きていますが、そのほとんどは無意識に思考しています。

 

不安を感じたときはどうでしょうか。

 

意識的に考えを巡らせるのではないでしょうか。

このとき罠は発動します。

不安による悩みに対し思考を深めるまではいいのですが、不安が強ければ強いほど思考が止まらなくなってしまいます。

意識的に思考すること自体悪いことではないですが、同時に、思考しすぎることによる弊害について認識しておかなきゃならないのです。

 

それを認識せずひたすらに思考の世界にはまり込んでしまうと、罠にはまります。

神経症的傾向が強まってしまうという罠です。

 

この罠は非常に恐ろしい物で、自分では気づかないうちにその力を増していきます。

結果的には、神経症の入り口となり、最悪精神病につながっていってしまうのです。

 

人が心を病んでしまうのはなぜなのでしょうか。

 

生きていれば不安はつきもので、怖い思いもするでしょう。これは避けられないでしょうし、生きてる限り全員が経験するでしょう。

きっとこういう負の出来事などが心を病んでしまう原因になってしまっていると考えられますが、病む人もいれば病まない人もいます。

 

当然不安の元となるものの強さの違いや、個人の性格など色々あると思います。

 

病む人と病まない人、何が違うと思いますか?

 

コレが、思考の罠です。

簡単に言うと、考え過ぎてしまうか否かです。

 

元々病んでない心の状態というのは、脳が健康ということで、思考が正しく行われている状態といえるでしょう。

それは不安など負の出来事に対してもそうです。

ここに意識的にメスを入れてしまう、それが考えすぎるという行為です。

元々健康的な脳を自ら手を加え、結果エラーが発生してしまうのです。

 

この罠の恐ろしいところは、エラーが起きていることに気づけないことです。

むしろ悩み解決のために努力していて、正しい行為であると自覚されているでしょう。

もちろん意識的に思考し、解決し、考えすぎの状態にはまり込みさえしなければ問題などありません。

 

ただ、行き過ぎた思考というのがエラーの引き金となり、雪だるま式に神経症的傾向が強くなっていくという危険性が潜んでいるということです。

 

心の病というのは、考えすぎからはじまると言えるでしょう。

 

人は考える生き物であり、思考自体は悪いことではありません。度が過ぎると人ゆえの病が起こりうるということです。

 

まさに現代で問題となっている精神に関わる病気たちです。

 

考えすぎが引き金になっているということは、知っていて損はないといえるでしょう。

不安が大きければ大きいほど、考えすぎの罠も大きいです。

あらかじめ罠の存在を知ってるかどうかで、不安に対する向き合い方も、変わってくるのではないでしょうか。

 

本日の気付き

 

 

「不安に対し考えることは、良い面があると同時に、とんでもない罠が潜んでいる」

 

 

ではまた次回!!

 

気にしすぎるという症状

本日のテーマ

 

 

「気にし過ぎることのリスクについて」

 

 

誰でも生きていれば、多かれ少なかれ、いろいろな場面で不安というものはつきまといます。

 

ある程度の不安はむしろ必要だし正常ですが、

度が過ぎると精神的に不調をきたす可能性があります。

神経質といわれる方は、特に不安が辛いのではないでしょうか。

 

皆さんは日々の生活の中で、どれくらい「気になる」ことがあるでしょうか。

 

不安を感じ、それを気にしてしまうことがストレスになっている場合、気にするという行為が辛く感じてしまってることが多いのではないかと思います。

 

例えば、職場での仕事や、その環境、人間関係などで不安が生じることが多いは比較的多いといわれています。他にも将来の不安、健康面の不安、日々の生活上の不安、漠然とした不安、いろいろあると思います。

 

気になることは人によって違いますが、不安が多ければ、それを気にし過ぎるリスクは高いでしょう。

 

例えとして、人間関係にフォーカスしてみます。

 

人のストレスのほとんどは人間関係からくるものと言われています。

 

職場でミスしたらどうしよう、嫌われたらどうしよう、失敗したらどうしよう、

 

こういった感情は人間関係に付随しているものと言えるでしょう。

 

しかしこれくらいは誰もが少なからず感じているのではないかと思います。

気にならない人より気になる人の方が比較的多いのではないかと思います。

 

やはり注意したいのは、気にしすぎるということ、不安に対して度を越して気にしてしまうことです。

 

時に人は、自分が気づかないうちに、気にしなくてもいいレベルまで過剰に気にして、まわりまわって自らの首を絞めているという状態に陥ることがあります。

自分で自分の首を絞めていることに気づけていなかったりするのです。

不安に対しどうにかしないとと感じることは間違ったことではありません。

しかし良かれと思い気にし過ぎていると、新たな問題を引き起こしてしまうのです。

 

ぐるぐる思考(いわゆる反芻思考)は悩みを生み、やがて囚われに発展していきやすいです。

 

精神を病んでしまう原因のひとつに、気にし過ぎや反芻思考があります。

 

不安は悩みとなり、悩みを解決したくて気にし考えますが、そうして考えれば考えるほど、不安に囚われやすくなるという罠が潜んでいるのです。

 

不安に押しつぶされそうになり、気にし過ぎてしまうことは、きっと誰にでもあります。

 

まず、ここで一歩だけ引いて、不安と向き合うことが大切です。

 

世の中には、不安に対し、過剰に気にしすぎる人と、次の日には綺麗に忘れている人がいます。

 

人によっては、その出来事や不安が、全く気にならない人もいるということです。

 

自分が感じているその不安や恐怖が、もしかしたら気にする必要のない錯覚や妄想のようなものなのかもしれないということに気付けるでしょう。

 

あくまで考え方のひとつでしかありません。

本当に不安でしかたない、自分とその人とは違う、それは事実です。

 

大事なのは、自分が感じてる不安も、他の人の中には、全く気にならない人がいるということに気づくという点です。

 

ひとつ言えるとしたら、不安や出来事に対し、気にしても、気にしなかったとしても、どちらも正解ということでしょう。

 

視野を広げれば、不安に囚われにくくなれると言えるのではないでしょうか。

 

気にすることも正解、気にしないこともまた正解、気にしてはいけないということではないのです。

 

気にしなくても正解という事実を知ってるだけで、楽になれたりします。

 

人によって、蜘蛛が怖かったり、高圧的な態度に弱かったり、人の目が気になったり、汚れが気になって仕方なかったり、様々あります。

 

しかし、すべてにおいて、それを全く気にならない人もいるという事実があるということ。

 

ただそれを知ってるだけで、少し楽になるのではないでしょうか。

 

本日の気付き

 

 

「自分が気になっていることは、案外、他人のどうでもいいことだったりする」

 

 

ではまた次回!